『ノルウェイの森』に誘われて

村上春樹『ノルウェイの森』について考えるブログ

はじめに

はじめまして。

自己紹介も早々に、当ブログの趣旨を説明したいと思います。ズバリこうです。

村上春樹作『ノルウェイの森』についてひたすら考える。

これに尽きます。

でもその前にいくつか言っておきたいことがあります。

 

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1. はじめに

はじめまして。

自己紹介も早々に、当ブログの趣旨を説明したいと思います。ズバリこうです。

村上春樹作『ノルウェイの森』についてひたすら考える。

これに尽きます。

でもその前にいくつか言っておきたいことがあります。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 

 

 

世の中には既に、たくさんの村上春樹論や、たくさんの『ノルウェイの森』の解釈が存在していることは百も承知です。いくつかのエッセイで村上春樹自身が自分自身や『ノルウェイの森』の位置付けについて語っているのも承知しています。

 

ではなぜ、今更そんなブログを始めるのか?

そしてなぜ、『ノルウェイの森』なのか?

 

まずはそれから説明していきましょう。そしてそれを僕の自己紹介に代えたいと思います。なぜならそれはおそらく多分に僕自身のパーソナリティを含むことになるからです。また補足ですが、『ノルウェイの森』のネタバレを含みます。できるだけ抑えようとは思っています。

 

 

 

2. なぜ今更ブログを始めるのか?

きっかけは大きく分けて3つあります。これらはあくまでブログ開設のきっかけなので、もう少し別のトピックも取り上げるつもりです。

 

①巷に溢れた解説や他人の感想の多くが、僕の考える『ノルウェイの森』の本質を突いていないように感じられたから。

 

少し刺激的なタイトルにしてしまいましたが、もちろん、文学には何か正解があるわけではありません。

したがって、いくら僕が「僕の考える本質」を追求したところで、それは結局正解ではありえません。作者自身、つまりこの場合、村上春樹自身さえ正解を知っているとは限らないと思います。ご本人もエッセイなどで言っておられますが、むしろ知らない、と考えた方がいいと思います。このあたりの話は次回の記事でもう一度詳しく話したいと思います。

 

少し話を戻します。では文学から「正解」を導き出すのは不可能だとして、村上春樹研究者でもない僕が『ノルウェイの森』について論じていくことに何か意味はあるのでしょうか。

村上春樹にご用心』などの著作も書かれているフランス文学者の内田樹さんは、ご自身のブログの記事「村上春樹の系譜と構造」内において、次のように述べておられます。

 

最初にお断りしておきますけれど、僕は村上春樹の研究者ではありません。批評家でもない。一読者です。僕の関心事はもっぱら「村上春樹の作品からいかに多くの快楽を引き出すか」にあります。ですから、僕が村上春樹の作品を解釈し、あれこれと仮説を立てるのは、そうした方が読んでいてより愉しいからです。どういうふうに解釈すると「もっと愉しくなるか」を基準に僕の仮説は立てられています。ですから、そこに学術的厳密性のようなものをあまり期待されても困ります。とはいえ、学術的厳密性がまったくない「でたらめ」ですと、それはそれで解釈のもたらす愉悦は減じる。このあたりのさじ加減が難しいです。どの程度の厳密性が読解のもたらす愉悦を最大化するか。ふつうの研究者はそんなことに頭を使いませんけれど、僕の場合は、そこが力の入れどころです。
いずれにせよ、僕が仮説を提示するのは、みなさんからの「真偽」や「正否」の判断を求めてではありません。自分の「思いついたこと」をみなさんにお話しして、それに触発されて、「今の話を聞いて、私も『こんなこと』を思いついた」という人が一人でもいれば、僕はそれで十分です。

(引用:村上春樹の系譜と構造http://blog.tatsuru.com/2017/05/14_1806.html

 

畏れ多いことを言うようですが、僕のスタンスも同じです。僕の考える『ノルウェイの森』の本質、それはとどのつまり『ノルウェイの森』に対する僕の凡庸な視点にすぎないわけですが、それがこのブログに辿り着いた方々、特に僕の身近にいる人や、このような村上春樹論・『ノルウェイの森』論に触れる機会のない人々に届き、何か新しい気づきを得てもらえたらいいなと思っています。

 

僕が社会あるいは世界に対して感じる違和感を、僕の中で熟成させ、誰かに伝え、そして共有すること。これこそが僕が今やりたいことであり、まずは、僕のお気に入りの本である『ノルウェイの森』についてまわっている違和感について切りこもう、ということです。そこに何か価値が生じるかどうか、意味があるのかどうか、他に無いオリジナリティが生じうるのかどうか、はまだわかりません。でも例え読者の一人でも何か気づきを得られたのなら、僕的には、僕が語る意味有りです。

 

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

 

 

 

②ある登場人物のある名言について、一言言いたかったから。

「ある登場人物のある名言」とはこれです。

 

「自分に同情するな」と彼は言った。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」(下巻)

 

有名な台詞なので『ノルウェイの森』を読んだことがある方なら、見覚えがあるのではないでしょうか。 

詳しくは後々記事を書こうと思いますが、少し先にアイデアだけ言っておくと、この言葉は薬にも毒にもなる言葉のはずだということです。

その薬の部分も毒の部分も、小説の中に提示されているように僕は思うのですが、いろんな人と『ノルウェイの森』の話をしていると、意外とこの毒の怖さが理解されていないように思うのです。

 

だから僕は何かの機会に、これは毒でもあるんだぞ、ということをはっきり言っておきたかった。仮に僕の思い違い(というか思い上がり)だったとしても、念押しで発言しておくほどの毒だと思っています。しかし飲み会とか、デートの帰り道とかに、こんな議論をふっかけるわけにもいかないので、それを発言する場を探していたら、ブログという場に行き着いたということです。

 

 

 

③「小説」と「物語」と「精神」に関する僕の考えを一度まとめておきたかったから。

 

個人的な話になって恐縮ですが、僕が村上春樹作品と出会ったのは、僕が精神的に最も孤独を感じていた時期でした。

その当時、『ノルウェイの森』は、まさに僕のためだけに書かれた小説のように感じられました。そして村上春樹初期の作品のデタッチメント感は僕の精神を癒してくれました。(デタッチメントという言葉は村上春樹本人のものです。こういう話も後々していけたらなと思っています。)

 

しかし、それはとても不思議な体験でした。なぜなら村上春樹の作品には、僕がそれまでに読んでいたミステリー小説や映画などと比べて、複雑な構造や鮮やかな伏線回収による面白さなどは無かったからです。なぜ僕は自分が癒されるのかわからないまま、僕は村上春樹の一ファンになったわけです。

 

そして、僕が本当の意味で村上春樹に衝撃を受けたのは、『村上さんのところ』(新潮文庫)という、ネット上で集めた読者からの質問に村上春樹が答えた内容をまとめた本を読んだときのことでした。

本当はいくつも引用したいのですが、みだりに引用するのは良くない気がするので、一つだけ引用します。

 

▷(中略)もし作品を通して世界に大きな影響を与えられるとしたら、どんな影響を与えたいと、村上さんはお考えですか?(中略)

▶︎出口を見失って苦しんでいる人に、「出口はあるかもしれない」と思わせることができたらいいなあと思っています。もし誰かにそういう影響を与えられたら、小説家としては冥利に尽きます。

村上さんのところ, #162, p.185)

村上さんのところ (新潮文庫)

村上さんのところ (新潮文庫)

 

 

 

頭に電撃が走った気がしました。

この本(引用した部分だけではなく本全体)から得た気づきはこういうことでした。

村上春樹「物語」が人の精神を癒し、あるいは傷つけるということを完全に自覚し、自分の小説を書いている。

 

つまりここにおいて、僕が村上春樹の作品を読んで癒されたと感じたのはある意味必然だったことがわかったわけです。(正確に言えば、村上春樹初期作品はそこまで「物語」を意識して書かれたわけではないと思います。本人も「物語」を導入したのは『羊をめぐる冒険』以降と言ってますし、出口を明確に意識しているのは『ねじまき鳥クロニクル』以降であるように思います。)

 

そして「物語」というのは超重要キーワードです。

「物語」とは何か、それは「小説」とは違うのか、あるいは単なる「話の筋」とは違うのか。なぜ「物語」が精神を癒すのか。それは最初の時点では、僕にはまだ不明瞭でした。

 

それから僕は村上春樹の作品を片っ端から読み漁りました。そして、「物語」と「精神」について深く理解しているのは、村上春樹あるいは文学の世界にいる人間だけではないことを知りました。

「物語」について深い理解を示した人物、それは河合隼雄という既に亡くなった臨床心理学者です。

一番最初に河合隼雄の名前を知ったのは、村上春樹の自伝的エッセイ集『職業としての小説家』(新潮文庫)の「第十二回 物語のあるところ   河合隼雄先生の思い出」という文章です。一部引用します。なお、はてなブログでは傍点が付けられないので、原文では傍点がついている箇所を太字に代えました。

 

我々は何を共有していたか? ひとことで言えば、物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。魂のいちばん深いところにあるからこそ、それは人と人とを根元でつなぎ合わせることができるんです。僕は小説を書くために、日常的にその深い場所に降りていきます。河合先生は臨床家としてクライアントと向き合うことによって、やはり日常的にそこに降りていきます。河合先生と僕とはたぶんそのことを「臨床的に」理解し合っていた  そういう気がします。

(職業としての小説家, 新潮文庫, p.337)

職業としての小説家 (新潮文庫)

職業としての小説家 (新潮文庫)

 

 

また、村上春樹河合隼雄の対談集『村上春樹河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)がありますが、これに僕は再び衝撃を受けました。この本の前半のタイトルはまさに「第一夜 「物語」で人間はなにを癒すのか」となっています。

作家と臨床心理家が共有する「物語」というコンセプトとは一体何なのでしょうか。

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

 

 

そんなわけで、僕は「小説」と「物語」と「精神」について考え始めました。最近それなりに考えがまとまったので、ここで一度アウトプットしておくのも悪くないと思った僕は、『ノルウェイの森』という作品を題材にブログを書こうと思いました。

 

 

 

 

3. なぜ『ノルウェイの森』なのか

 

さて、村上春樹の著作から何か一つを抜き出して、「物語」について論じようとするとき、『ノルウェイの森』を選ぶのはあまり適切ではないような気がします。 

なぜなら(少し話は先走りますが)、「喪失」が描かれている『ノルウェイの森』に対して、『ねじまき鳥クロニクル』では「暴力」と「回復」も描かれています。さらに『ねじまき鳥クロニクル』に対して、『1Q84』では「宗教」も描かれているからです。

 

ちなみに上に述べた『ノルウェイの森』以外の二作品はつい先日朝日新聞が発表した「平成の30冊」にランクインしています。『1Q84』は1位、『ねじまき鳥クロニクル』は10位です。

 

ただ僕のキャパを考えるとその二作品に切り込むのは中々量的にも厳しい。

また、初めて衝撃を受けた純文学ということで『ノルウェイの森』は僕にとって特別な意味を持っているし、単純に小説としては僕は『ノルウェイの森』の方が好きなのです。

それにはいくつか理由がありますが、一つには村上春樹の長編小説の中では珍しいリアリズム小説であり、それによって村上春樹独特のユーモアがもっとも上手く嵌っている作品になっている、と僕は思っているからです。これについても後々論じたいなと思っています。

 

 

そういうわけで、次回は早速、【「小説」と「物語」と「精神」の話】をしたいと思います。

具体的に『ノルウェイの森』に埋め込まれた「物語」や他の細部について論じるのは次回以降になると思います。僕が何を言ったって小説の好き嫌いは当たり前にあると思いますが、そういうわけで次回だけは『ノルウェイの森』が嫌いな人にも読んでいただけたらと思っています。

 

興味が出た人はぜひ『ノルウェイの森』を読んでみてください。

では、次回もお読みいただけることを祈っています。

 

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)

 
ノルウェイの森 (講談社文庫)

ノルウェイの森 (講談社文庫)

 

 

ノルウェイの森

ノルウェイの森